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本物の”専門ばか”とは


昨日の教基法改正案衆院通過に虐め、未履修問題と今、良い悪いは抜きにして教育問題が非常に熱いわけですが、今日はちょっと違う視点から教育について考えてみたいと思います。

1991年に亡くなった本田宗一郎氏の生誕100年を記念して、その功績を称えるイベントが開催されたそうです。筆者などは本田さんというと、あの名車「スーパーカブ」を思い出すわけです。
筆者が初めて運転という行為をしたのを手伝ってくれたのはスーパーカブでした。その昔、高校生の頃に新聞配達をしていた友人に早朝、何度も乗っけてもらったことを今でもよく思い出します(スイマセン、未だ無免許でした)。
スーパーカブは現在でもよく売れています。リンク(スーパーカブ)先を見ますと、一車種で販売台数が5000万台を越えたのはこの車が初めてだそうです。
「オッサンバイク」なんて云われてお世辞にも格好良い車ではありませんが、よく売れている理由はやはり、半端じゃない経済性の高さとモノ保ちの良さでしょう。
言い換えれば、車の原点といいましょうか、最も基本に忠実な車なんだと思うわけです。だからこそ50年近くも売れ続けているのでしょうね。
良いものはいつまでも残っていく・・・まさに何か大事なことを示唆してますね。

前置きが長くなってしまいましたが、そんな、云ってみればごく普通の車を作った本田氏は至極、普通ではない並外れた才能の持ち主だったことが改めて分かります。
これは以下の記事の抜粋にもありますように、本田氏が”生粋の専門ばか”だったからだと、筆者などは強く感ずる次第です。

本田宗一郎氏生誕100周年 偉人の功績、後世に

本田宗一郎氏のモノづくりにかける情熱と経営手腕は松下電器産業創業者の松下幸之助氏と並び称され、本田氏らの技術型経営者がいたからこそ日本経済の発展があった。
また、本田氏は日本人として初めて米国の自動車殿堂入りを果たすなど、日本の自動車産業発展の牽引(けんいん)役も果たしてきた。
「やってみもせんで何がわかる」が口癖で、工場に出向いては従業員とともに油まみれになることもしばしば。勳一等瑞宝章の授章式の際には、「技術者の正装は白いつなぎ(作業着)だ」と言い放ち、作業着姿で出席しようとしたのを夫人に止められて礼服に着替えたというエピソードがあるほど、根っからの技術者だった。


ちょっと前のエントリーにも、この”専門ばか”について少し触れたのですが、昔はさておき、現在ではこの言葉を余り良い意味では発しなくなりました。それは一言で云えば、「視点の狭さ」が付き纏うからでしょう。
確かに、筆者のような中途半端な専門ばかですと、「視点の狭さ」という観点がそのまま当て嵌まってしまいます。しかしながら、本田氏のような、謂わば達人の域に達した”専門ばか”ともなりますと、それは大概において一致することは無いと思います。

よく云われることなのかもしれませんが、物事(専門)を極めた方というのは、その専門を通じて”ものの道理”を体得した方だと言い換えることが可能だと思います。
余り壮大なことを言うのも何ですし、元々こういったものは体得するものなので定義すべき事ではないのかもしれません。がしかし、敢えて表現すれば、”ものの道理”とは森羅万象の原理・原則であって、全てに適用できる通則のようなものなのでしょう。
そう、別な表現では”物事の本質を見抜く力”とでも申しましょうか。

ですから、”本物の専門ばか”は決して、世の中を”狭い視点”で捉えたりすることはありません。そうした”ものの道理”を弁えていたからこそ、本田氏は「ごく普通」の、翻って「最も優れた」名車を世に多く送り出すことが出来たのだと推察いたします。
基本に忠実な「ごく普通」のモノや考え方というのは誰でも考えつくようでいて、それを具現化することは最も実現し難いことだ、というのは昨今のおかしな社会情勢を観れば明らかですね。



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今の教育システムでは、本田氏のような人を輩出することは難しいでしょうね。
だからといって、専門ばかになることを推奨しているわけではありません。今作られている専門ばかは謂わば”受験専門ばか”であることは、未履修問題にあるように高校が予備校化している現状を観れば明らかです。
さすがに、”受験専門ばか”では”ものの道理”を極めるなんて事なんてできないと思います。

そうではなくて、これは非常にパラドキシカルな考え方ですが、若いうちはもっと色々なものの考え方を学んだ方が良いのではないか、ということです。現在の教育は幸か不幸か高度にシステム化されてますので、第二の本田氏を輩出できるような状況にありません。だとすれば、”ものの道理”に通ずる基本に忠実であることを学ぶには、一見無駄、非合理に見えるかもしれませんが、広く物事を学ぶことしか解決法は無いように思えます。
それも今のような偏向に満ちた教師から学ぶのでは意味がありませんので、教員の質向上は急務の課題でしょう。

ご存じの方もおられるでしょうが、武道の世界には「守・破・離」という考え方があります。
まずは教えられたことを””る事、これは基本に忠実であることに繋がります。そして、腕が上達したならば、初めてそれを””って新しい境地を得た後にその流儀から””れていくという修行パターンのことです。
基本を為し得ずして新たに創造すること無かれと云う教えでしょう。

現状のゆとり教育なんてのは教員側の視点に立った、ただの手抜き教育です。それも「何故、子供にゆとりが必要なのか?」という基本が抜け落ちているからです。その根本が未解決のままで新しい教育を潮流に載せようなんてことをするから失敗するんです。
結構、この教えに従う事象というのは世の中に沢山あるのではないですかね。

広く物事を知り、ものの本質・道理を学ぶことの出来る教育体系を創って欲しい、そのためには知育と同時に徳育にも力を入れなければならないのでは?と云うのが今日の結論です。
長々と書いておいて、あっさりの結論で申し訳ないのですが、アラが出ないうちに止めておきたいと思います。



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