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浅野史郎と杉浦法相に観られるある種の矛盾


今朝のよみうりテレビ「ウェークアップ!ぷらす」に出演していた浅野史郎氏(前宮城県知事、現慶応大教授)が例の国旗国歌訴訟判決について「そんなに熱くなる必要はないのではないか」という、ちょっと意味の解らないコメントをしてました。
続いて、「それよりも今の子供達が校歌を歌えないことの方が自分にとっては熱くなってしまう」という意味のコメントを発した瞬間に、筆者はこの人に熱くなってしまいました。

浅野氏はご自分の発言が如何に矛盾したものであるかを分かっているのでしょうか?
浅野氏が福祉・介護政策に強い元厚生官僚であること以外、氏の思想性向はよく判別できなかったのですが、上の発言から、この人も国家という最も大きな枠組みを嫌う思想傾向をもつ人間であることが分かりました。

浅野氏は「自分の所属する学校の校歌も歌えないなんて恥ずかしい」なんて言ってましたが、その前に、その子供が所属する日本という最も大きなドメインのことは無視しても良いのかどうか、筆者は一度問い質してみたいです。
浅野氏にしても、この訴訟原告にしても、学校、会社、地域社会等は日本という国家があってこそはじめて存在できるドメインであることを意図的に誤魔化しています。
いくら愛校精神だの郷土愛だの言ったところで、それらは大元の日本国家無くして存立し得ないことを、我々大人達は子供達にきちんと教えるべきです。

愛国心を嫌う者達は、国を愛する心を「国の統治機構を愛する精神」に意図的にすり替え、すでに有りもしない軍国主義とやらの妄想を子供達に抱かせるのに成功しています。
確かに大東亜戦争時の統治機構の多くは間違ってましたが、あの時散っていかれた英霊に「国の統治機構のために征く」心をもった方がどれ程いらっしゃったでしょうか。
殆どの方々が、愛する人のため、美しい郷土を守るために散華されたのではなかったですか?、我々はそれは忘れてはなりません。

そうやって先人達が必死の思いで守り抜いてきた日本という国家の中に学校も家庭も郷土も在ることを筋道立てて教えれば、強制などしなくとも、純真な子供達は自然と国旗や国家に頭を垂れるようになるはずです。

これは法律以前の問題です。
この訴訟原告やその支援者達は確信犯です。必ず、上級審でまともな判決が下ることでしょうから、東京都は粛々と処分や施策を続行させれば良いと思います。


もう一人、自らが法曹であることを忘れ、「職務」と「心の問題」の分割の出来ない法相がいます。この杉浦法相、多分、明後日にはお役ご免になっているのでどうでも良いのですが、余りに間が抜けているのでちょっと採り上げてみます。



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杉浦法相はこの訴訟判決について以下のようにコメントしていました。
[国旗国歌訴訟]「裁判起こること信じられない」法相が感想

杉浦正健法相は22日の閣議後会見で「私の地元(愛知県岡崎市)では戦前も戦中も戦後も整然と国旗は掲揚され、国歌は卒業式でも入学式でも歌われている。ああいう裁判が起こること自体がちょっと信じられない思いだ」と述べた。「法相としてではなく、一議員としての感想」としている。

そして、
「血塗られても英国は変えぬ」 国旗めぐり法相発言

東京地裁判決を受け、杉浦法相は22日の閣議後の記者会見で、「個人的な一議員としての感想」と強調した上で、英国旗「ユニオンジャック」を例に引き、「『血塗られたユニオンジャック』という表現があるくらいだが、それでも英国民は国旗として変えない。そこを思い起こしてほしい」と話した。判決は、国旗掲揚・国歌斉唱は有意義としながらも、日の丸、君が代が軍国主義思想の精神的支柱だったことに触れ、起立・斉唱拒否に理解を示した。
杉浦法相は「一部報道では、日の丸・君が代が軍国主義を連想させると言うが、戦争に至った経緯とは関係がない」と話した。

後者の朝日の記事には中段に判決自体の説明なのか、法相の意見なのかが分からない、恣意的な説明文がみられますが、これらの発言を観ると、この人はまぁ真っ当なことを言っています。
しかし、今日の共同通信記事をみると、死刑執行に関して、国旗国歌訴訟の原告と同様の誤謬・勘違いを犯しています(必要部のみ抜粋)。
死刑執行ない公算 杉浦法相が消極姿勢

  (省 略)
法務省事務当局はさらに法相と協議を進めるとみられるが、死刑執行がない公算が大きくなった。1993年に当時の後藤田正晴法相が執行を再開して以降、法相の判断で執行しなかった例はなく、死刑廃止論も含めた議論が活発化することも予想される。 
関係者によると、法務省事務当局は最近、具体的な死刑確定事件の執行を念頭に、杉浦法相と複数回にわたって協議。法相は執行命令書への署名に消極的な姿勢を維持しているという。 
杉浦法相は昨年10月31日深夜、初閣議後の記者会見で死刑執行について問われて「私はサインしない」と明言し「心の問題、哲学の問題」と理由を説明。
  (省 略)


死刑執行の命令書にサインすることは、法相の重要な「職務」ですよね。
それを「心の問題、哲学の問題」で拒否する姿勢と教員の国歌斉唱における起立義務(職務)を「思想良心の自由」を盾に拒否する姿勢は何やら共通してませんか?
一方で、この訴訟の存在意義を無意味だと否定しておきながら、もう一方で、ご自分の職務を訴訟原告とほぼ同じ「心の問題」で逃げようとする矛盾。

日本の法曹界にはもうちょっとまともな人間はいないのかな、というより、法律をよく勉強すればするほど、歪な人権感覚が養われてしまうのでしょうか。

本当に司法も教育も、似非リベラルというアナーキスト達に乗っ取られていますね。
安倍政権から続く、これからの政権には「憲法改正(自主憲法の制定でも良い)」と「教育改革」の二つは何があっても完遂して貰わねばと改めて強く思います。



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